top of page
history_02.png
pixta_65186867_M.jpg

全国の銀座通りの発祥である中央通りの一筋西側に「金春通り」があります。「金春」と書いて《こんぱる》と読む珍しい名称です。長さおよそ130メートルほどの極めて普通の裏通りですが、江戸情緒を残す「銀座の最後の砦」と言われている由緒ある通りです。煌びやかな表通りとは違った表情の垣間見られる、ちょっとディープな金春通りをご紹介いたします。

凝縮した金春通り

江戸時代の香りを

名前の由来

金春通り

それは江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しています。
江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、最も歴史のある金春家は
室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家で、屋敷なき後も、この地にその名を留めているのです。

金春通り風景画像1
pixta_90871342_M_edited.jpg
金春通り風景画像2

歴史の名残り

明治になり江戸の大火を恐れた明治政府は、銀座に延べ約10kmに亘る稀有で壮大な煉瓦街を造り上げます。
残念ながら煉瓦街は関東大震災で消失しましたが、昭和63年に幻と言われた煉瓦街遺構が発掘され江戸東京博物館に収蔵されました。
この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたことを重要視し、あえて収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに建立したのが、写真にある「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」なのです。

「金春色」

今も愛される

金春屋敷が安永9(1870)年頃に麹町善国寺谷(現在の千代田区麹町)に移転後、「金春芸者」の名が知られ、現在の銀座七、八丁目西側の辺りが歓楽街となったのは幕末の頃でした。
能役者は幕府御用達の町人として一般の町人とは別格の扱いを受けていました。
しかし、能役者は武士ではないので、拝領地に町人を住まわせてはならないということもなかったようで、能役者の貸長屋には町人が住むようになりました。
しかも、能役者は若年寄の直接支配を受けなかったので、次第に芸者が住むようになったといいます。
彼女たちは唄や舞などの芸に秀で、おもてなしの才能にも長けていたことから、江戸芸者の草分けの「金春芸者」として生業をはじめ、金春通りは昭和40年代まで多くの芸者の集る花街として賑わいました。
この花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」です。
青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されています。

pixta_90871342_M_edited.jpg

現在、中央区には10軒の公衆浴場(銭湯)が残されており、そのうちの1軒が、この金春通りにある「金春湯」です。銀座に残っていること自体非常に珍しいことですが、創業が江戸時代末期の文久3(1863)年で150年以上の歴史を持つことに驚かされます。
昭和32年に現在の建物に改築されましたが、江戸時代から存続している都内の銭湯の3軒の内の1軒であれば、それだけでも文化財級といえます。

金春通り風景画像3

「金春湯」

江戸時代から続く

「能楽金春祭り」
~平和を祈願し、太平を喜ぶ~

まさに金春通りの真骨頂とも言えるイベント、それが毎年8月7日に行われる「能楽金春祭り」です。
このお祭は、金春通りで「路上能」として金春流宗家自ら能楽を舞います。千年古儀を誇る「奈良金春」独特の能楽であり、平和を祈願し、太平を喜ぶ、とてもおめでたい曲です。
皆様も是非一度は、金春通りが守り続ける「江戸文化」をご堪能下さい。

路上奉納能
pixta_90871342_M_edited.jpg

銀座金春通りをそっと見守り続ける
「金春稲荷」

通常新橋会館屋上に祀られている「金春稲荷」。
現在は、見番(金春芸者衆の組合)のビル屋上に祀られ、一般の方々は参拝出来ませんが、今回、「能楽金春祭り」の期間中のみ、金春通りに勧請(かんじょう)されて地上に降りていらっしゃいます。
この金春稲荷は芸の新橋と謡われた金春芸者(別名:新橋芸者)が守っている稲荷です。戦前まで金春通りにお社があり、お座敷に向かう前の芸者衆はお参りをしてから出かけていたそうです。
金春稲荷は容姿端麗もさることながら、あらゆる教養を身に付け、粋に生きる女性達の守り神となっています。
また商売繁盛の御利益もあります。
※勧請(かんじょう):神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。

金春稲荷
bottom of page